それは論理の問題なのか

 

 医師の書いた文章を法律家がどう解釈したかの議論がいつの間にか論理・科学と一般社会の話になり、さらに理系と文系の話になっている。

画像を見ると、因果関係を立証するための参考意見の中に「因果関係は否定できない」とあった場合、医師の多くは1%未満を想定しているが、裁判官の多くは二桁台のパーセンテージで因果関係があると理解する、なぜなら、法的判断の場では80%以上の蓋然性がなければ「因果関係がある」とは言わないから、ということのようだ。

さて上の二つのツイートだが、一つ目のツイートの「裁判の判決では「よってAと考えるのは妥当である」という使い方をされてしまう」は間違っている。画像を見ると裁判官は「「相当因果関係がある」と受け取りがち」と言われており、「相当程度にAがある」と「Aと考えるのは妥当である」はまるで違う。さらに、そう受け取りがちな理由を法律や裁判の考え方や物の言い方という点から説明しているのに、そこを完全に無視している。

二つ目のツイートは理系と文系という対比は雑だが、「「可能性は否定できないのか!」(→100%ではないけど、可能性は高いな!!)」という書き方は「相当因果関係がある」と受け取りがち」の言い換えとして間違ってはいないし、後に述べるように「文化ギャップ」という理解も正鵠を射ているとおもう。ただし、それは理系と文系の文化ではなく、医師と裁判官の文化である。

「因果関係は否定できない」という記述から想定される蓋然性にはかなりの幅があり、何%かを決めるのは医師と裁判官それぞれの職業的慣習であって、論理や科学ではない。さらに、法律家の言葉遣いは一般社会のそれに近いというのもどこに根拠があるのかわからない。もし私が「因果関係は否定できない」の一文だけ見せられたら、思うことは「これだけではよくわからないな」だろう。

 

なぜこんなエントリを書いているかというと、こなみひでお氏の過誤もさることながら、賛同であれ批判であれ、私の目にした限りこれを枕に発言する人のすべてが画像の記事を読んでいないからである。もちろん、ちゃんと見た人は発言していないということはあると思う。