美津井さんはサンバイザーをかぶって自転車に乗る

川東の夏は風が長髪に熱く、美津井さんはサンバイザーをかぶって自転車に乗る。ヤクルトレディのようなというか、結婚前の職業はヤクルトレディだった。夫は彼女がヤクルトを売りに出入りしていたビルの警備員。

ある日、美津井さん(仮称。旧姓は不明)が配達で上街道のぬかるみを自転車を押していると、帰宅途中の夫(正確には未来の夫。名前不詳)が声をかける。夫に手伝ってもらいながら話をするうち、彼の家が美津井さんも知っている生け花の師匠の家であることが判明する。彼女はかつて伊藤花苑でアルバイトをしており*1何度か店長の運転するワゴンで大量の花を配達したことがあったのだ。

別れ際に、偶然ですね、実はずっとお話ししてみたかったので嬉しいですみたいなことを言って去って行く夫。美津井さんは例の軽く握った右手を口元に当てるポーズで後ろ姿を見送る。ぬかるみは折からの陽射しでもう乾きかけていた。

 

*1:伊藤花苑と林薬局は他の草野作品にもしばしば登場しており、出て来ると嬉しい。「かんかん橋」と同じ舞台なのか、平行世界の川東と考えるのが良いのか。