どこにもいられない人
インターネットだと体育嫌いを標榜しておけば敵は作らないようなところがあって、乱暴に言えばネットの外の世界の逆をやっている*1。ところが、いろいろ見ていると指導者の横暴とかチームの団結といったことは苦手だけど体を動かすのは好きだし競争はあった方が励みになるのでずっと陸上をやっていた、といった人もいて、こういう人はどこに行っても居心地が悪いだろうなとおもう。
こんな風に自分はどんな議論でも必ず、どちらの側にも入れない人、自分の思いを言い出せず沈黙したままの人の存在をつい考えてしまう、そう思っていたのだけど、実際は相手の話もろくにきかずに既存の箱に放り込むようなことを無自覚にやっていることがたくさんあるのだろうな、と気づくことがあった。話を聞いた後でレッテルを貼るならまだいい。それすらせずに最初からある分類箱に押し込めて蓋をしてしまうのは本当に失礼なことだ。
出典注記は敬意の問題なのか
「敬意」「失礼」「狡賢さ」といった言葉を連発しているのが気になる。
他者が苦心して紡ぎだした言葉を、きちんと言及せずに、あたかも自分が紡いだかのように書く行為は、「剽窃(plagiarism)」であり、学術的行為として唾棄すべきものです
剽窃行為は、そうした知的活動の積み重ねを蔑ろにする知的軽薄さ、愚かさを露わにしているのです
ということだが、Webサイトや学術論文など無料公開された文章について出典を示さずに引用するのが駄目なのは、誰の意見なのかはっきりしないと読者が検証する際に混乱するからではないのだろうか。書き手が苦心したかどうかは関係ないと思う。
これら「キュレーション型剽窃」がとくに悪質と感じるのは、他人の文章をそのままパクる部分もありますが、元の文章の一部を変えたり、つまみ食いをしたりすることで、「自分の文章だ」感を出そうとしているように見える
とも言われているが、このように切り貼りのままではなく加工してしまうのも、議論の正確性ではなく「ズルさ」や「敬意」を問題にしているからそうなるのだろう。
肩もみは二の腕のためにある
親子くらいは歳が離れているのかなと思わせられる二人だが、別な動画での会話から察するにわりと近そうでもある。
1:50の「気持ちよすぎて、ほーお、しか言えないねえ」、3:00で「きゃー」ではなく「きやー」と発音しているあたり、友人のしゃべり方にそっくりだ……とおもったが誰にもわからない上にわかったところで他人様にとってはどうでもいいことであろう。
マッサージとしては肩のみならず二の腕と頭もやっているのがポイント高いです。
この二人は恐山の宿坊で爪の甘皮取りをしているという不思議動画もアップしている。そのとき雑談でしている映画の話などほとんど情報量が無のうろおぼえで構成されておりまるっきり私のする雑談であるが、そこで語られている、はやり過ぎると見られなくなるという感覚はものすごくよくわかる。この二人は変なプライドが出てとは言っているが、しかし「見ない」のではなく「見づらくなる」というのがポイントで、個性アピールとかではなくて自分は見てはいけないのではとなぜか思ってしまうのだ。